ミュージカル『レ・ミゼラブル』

少し前のことになるが、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観た。私は帝国劇場でやるタイプの大型ミュージカルをあまり好まないのだが、『レ・ミゼラブル』は別物……なんて言うわけもなく、最初から観に行く気がない。今回はハプニングのようなもので観られた。

とはいえ『レ・ミゼラブル』のお話も楽曲もとても好きだ。楽曲に関しては、尋常じゃないくらい聴いている。その中でも特に好きなのが、エポニーヌの楽曲。

エポニーヌは、お金のためなら平気で人をだませるような親を持つ子で、幼馴染のマリウスに恋をしているのだが、そのマリウスは、かつてエポニーヌの親がお金のために引き取り、ひどい扱いをし、エポニーヌもいじわるをしたコゼットに恋をしている。マリウスはエポニーヌの気持ちに気付かない。

私はそのエポニーヌが、これから命がけで戦うマリウスに託されたラブレターをコゼットに届けた(父親に託した)帰り道で歌う「On My Own」がとても好き(ちなみにそのあとの「Little Fall of Rain」もとても好き)。「On My Own」は、自分を見てくれないマリウスへの想いを歌ったもので、わたしが観た歌唱や歌番組、CDでも、悲劇感たっぷりに歌われてきた。だけど今年久しぶりに観た『レ・ミゼラブル』で、屋比久知奈さんが演じるエポニーヌは、「ちぇ、なんだよ」みたいな感じでこの曲を歌い始めた。そして歌っているうちにどんどん悲しくなっていった。わかる、エポニーヌの悲しみがとてもよく伝わる。わたしの中で完璧な答えが出た気がした。

コゼットへのラブレターなんて託されて、エポニーヌが不憫すぎる。でもエポニーヌだって別に律儀に渡さなくてもいいのだ。子供の頃の彼女ならそうするんじゃないかな。そのくらい意地も悪く感じも悪い子だったから。だけど思いのほかいいヤツに育った。親は当時よりさらにがめつくなっているので(時代のせいなので責められないところもある)、マリウスの影響だろう。そういうエポニーヌが、「On My Own」を最初から激しい悲しみに暮れて歌うのがどうも飲みこめなかったのだ(私が別の演技を知らなかっただけかもしれないけど)。

この一曲ですごくいい気分になって劇場を後にした。

マッサージでもいくか~

ひとつ前の日記で書いた若者は声が大きいので、日々ちょっとしたストレスがあり、そのせいで日常的に心が下を向いている。たぶん気も短い。

子供の頃から機嫌を表に出すことも許されなかった。だから扉をバーンと閉めるようなこともしたことがないし、乱暴な口調もジョークじゃないとやらない。マナーとして、自分の感情を露呈するということをしない(気付かずやってるかもしれないけど)から、人に「怒っててもわからない」と言われる。でも発散できないから心の中でしつこいのよ。じめじめしてやだね~。

いやなものとどのくらい付き合わないといけないのかなー。わたしは付き合わなくていいと思ってるんだけど、結局は付き合わないわけにはいかない。でも合わないのに付き合ってもなにもうまれないし、なんか病気になりそうじゃんー。

ネガティブをベースにしたコミュニケーション

職場に、人をくさすことをコミュニケーションにする若者がいる。

自分より若い人には、仕事に加え生活全般にまで口出ししているので、世話焼きとも言えるのだが、言い方が「ちょっとあんた!なんでこうなのよ!こうしなさいよ!」みたいなノリできつい。年上である私に対しても、日々のファッションや出張帰りのお土産など、頼んでもないのにチェックしまくって、頼んでもないのに評価をくだす。けなされたくもないが、ほめられたくもない。その人がいるからブランドものの服は着て出社したくないとすら思ってしまう。仕事で慣れない作業などをしているところに通りかかった時は、「がんばってるね」とのたまった。一回り以上年上の人にそんなこと言う??先日大声で映画の話をしていたので聞こえていたのだが、とある映画を「おもしろい」と紹介しつつ、「あの映画よりおもしろい」とわざわざ他作品をくさしていた。その一言でうんざりしてしまうのよ。

自分の服をどう思うか聞かれ褒めると、「これ◎万円」と値段で返される。知らんがな。旅行に行くことなどを話すと、なにをするかより「どのホテルに泊まるのか」を聞かれる。そんなこと聞く人、この人しかいないんですよ。あと、ファッションはまだしも食べ物のお店のことを「それはもう古い」とか言うので、心の中で「おいしければなんでもいいのだが」と思ってしまう。

上の人と話していたら「でもあの年齢で自分で仕事を取ってくるし、仕事先の人に声もかけられるし、すごいんだよね」と評価されていた。そういうことなのかなあ。個人的には、ギラギラしたやつらがつるんで自分たちの中で仕事回してるだけじゃないのか、と思うが。でもそういう意見を聞くと、私が神経質なのかもしれないなと思ったりする。でもいやなんだよ~、聞こえてくるだけでも。

思えばずっとSMAPが苦手だったのもネガティブをベースにしたコミュニケーションを笑いに結び付けていたからだった(だから嵐は好きだった)。だけどSMAPはしっかりと大衆に受け入れられていた。あのときの孤独。苦手だな~と思っても、やめてくれというものでもない。

笑った

ナガオカケンメイがどんな人かあまり知らなかったけど、書き方に何回か笑った(笑)。D&Departmentで売っているものやつくっているものは、以前は好きなものばかりだったが、だんだん「Dっぽさ」って感じのものが並ぶようになって、「普通のブランドみたいになっていくのかな。残念だな」と思っていたが、ギリギリのところで踏みとどまっている。なんだかんだ2002年から途切れずに通っている。

最近では、Maison Kitsunéがわかりやすく「普通のブランド」の変貌を遂げていた。あれなんだろうな。追っかけっこみたい。

ミュージカルのキャスティング

ど真ん中で通っていた頃にはあまり思っていなかったのだが、チケット代の高騰などでミュージカルに通わなくなると、「なんかいつも同じキャストだな」と思うようになってきた。これは解像度の低下でそう思うようになったのか、距離ができて冷静になったということか。多分、解像度の低下かな。途端に内輪に見えて、自分と関係ない場所のように思えてくる。

映画『片思い世界』

映画『片思い世界』を観て以来、いろいろなことをグルグルと考えている。

 

 

 

ずっとひっかかっているのは、自分が殺人犯に殺意を抱いたこと。殺意を抱くことと本当に殺すことは違う。だから別に思うだけならいいと私は思うのだが、それでも、やり取りにカッとなって「死んでほしい」と思ったことがけっこうショックだった。さらには母親(西田尚美)を追いかけて、車にはねられた時にほっとしてしまった。これはやばいんじゃないか、そんな簡単なことじゃないはずだ。とずっと考えている。包丁を持ち出した母親も良くないのに、殺人犯だけが悪いと思ってしまう。ここの整理がつかない。あのお母さん、警察でどんな取り調べを受けて、どういう結果になるんだろうということを考えた時から、ずっとそういうことを考えている。

あの映画、どうしてつくろうと思ったんだろうな。殺人犯と母親の会話を見ていて、殺人犯に欠けているものはなにか、それは想像力なのではないかと思った。そしてこの映画は想像力でできている。ファンタジーは、つくる人はもちろんだけど、観る人の想像力がなければ成立しないから。そういうことから、想像力を軽んじることへの警鐘なのではないかと思ってみたり。

レイヤーが違うだけで死んだ人はそこで元気に暮らしているって言われた時に、映画館で私の足元に死んだペットがいるような気がして、そう思うと簡単に涙が出た。あの子にあと一回でいいから会いたい。そう思うと泣けてくるよ(書いている今も涙が出る)。

「死んだらかわいそうなわけではない」というメッセージは、近年たくさんの創作物から感じる。私も舞台や映画を観続けているうちにそれを意識するようになった。たとえばどんなに悲惨なラストでも、それまでのしあわせな時間が消えてなくなるわけじゃない。くそみたいな別れ方でも、幸せだった時間が相殺されるわけじゃない。頭では知ってたようなことだけど、ここまで生きなかったらわからないまま死んでいたかもしれない。

ルールではないだろうが

ハラスメントにまつわることは、教えてもらわないと気付けないことが多い。だけどそこで教わるものは、知識であってルールではない。ノウハウでもない。誰かを責めるための材料でもない。自分が人と関わるうえで必要な知識。

SNSを筆頭にここのところずっといつの間にかルール化されがちで、そうなると、そこで思考停止してしまう。思考停止した人の暴論はなぜかいつも自信満々で強すぎて、人を傷つける割に中身がなく、なにに傷つけられたかわからないところが恐ろしい。